日別アーカイブ: 2009年1月11日

尼崎医療生協問題、医療ミスを証明することは患者側にとってははなはだ困難なことなのです


 

NATROMの日記さんが、私のブログに行き当たってくれたようで、ご紹介いただいた。

というか、ご忠告いただいたという方が適切なようだ。でも、こういうのがたまらなく嬉しい。自分の論点整理にもなるし、間違った考えをしていたら、修正もできる。まだたった47年しか生きていないんだから、本当にありがたいことだ。

 

以下、この方のブログを転載すると、

現時点では、医療ミスとは断定できない。よしんばミスであったとしても、「とんでもない初歩的なミス」とは言えない。「遺族にはミスを認めていた」ことも明らかになっていない。明らかになったのは、「『病院側はミスを認めた』と遺族側は認識していた」ことである。前後の記事も読んでみたが、このブログ主は共産・民主が嫌いという点で一貫している。尼崎医療生協病院が共産党系なので、ここまで批判したのだろう。典型的なネット右翼であるなあと思ってプロフィールを見てみたところ、

 

確かに、私は医療の専門家でもないけれど、いろんな医師のブログで、治療自体は、かなり危険との指摘もあった。しかしながら、この尼崎医療生協は、そんな危険な治療を研修医にやらせていたわけで、初歩的と医師が思ったから、研修医にやらせたのか、もしくは、そんな危険な治療行為を研修医にやらせたのか、どちらにしても初歩的なミスじゃないのと思った次第。また、確かに現時点では、医療ミスかどうか、これは、裁判に譲るしかないが、裁判で、患者側がミスを証明することがいかに困難なことかは、NATROMさんは多分ご存じでしょう。幸いなことに、遺族となったお母さんが医師とのやりとりをボイスレコーダーで録音していたから、なんとか証明できるとは思うが、法的知識に長けた医師は、ミスという言葉自体は口にしていない。本当にずるいと私は思う。それと、共産・民主嫌い=ネット右翼というのは、思考が硬直化してるなぁというのが実感です。巷にいわれる、民主に批判的な人たちを右翼というのは、どうでしょうか。いまどき、右とか左とか、時代遅れな気がします。巨大な全国組織をもつ医療生協の味方をするより、患者を放置した病院の側ではなく、遺族の側に立ってもらいたいなぁ。

さらに、私のプロフィールを見て、NATROMさんは、

大阪市会議員ですかい。公明党かあ。政治家は多くの分野を扱わなければならないので、個々の分野に専門的な知識を持つことができないというのはわかる。しかし、自分のよく知らない分野において「とんでもない初歩的なミス」などと批判することには慎重になってもらいたい。また、マスコミの報道が必ずしも信用できないことについても理解しておいて欲しい。この市会議員は他の件ではマスコミ批判をしているようなので、尼崎医療生協病院批判の点のみにおいて報道を鵜呑みにするのはダブルスタンダードである。それから、サイトのトップページ*1で「911の真実とは」という動画にリンクを張るのは止めた方がいいと思うよ。

と書いておられます。

この方のプロフィールを見ると、

名前:NATROM
年齢:36歳
性別:男
職業:内科医

とある。開業医なのか、病院勤めなのか、はたまたどこにお住まいなのか、ネットの匿名性の元では、名をさらしている私としては、ちょっと不公平な感じがした。

それともう一つ不審な点は、私がMBSの放送内容を掲載していることから、私の判断があたかもマスコミの主張によるものみたいな言い方をしているが、そうではない。遺族がしっかり録音していた医師の言葉にもとづくもので、NATROMさんは、謝罪はミスを認めたことにはならないとまでおっしゃる。何故、そこまで、民医連をかばうのか。

 

MBSの報道で流れた、遺族と医師の会話

「病院はミスを認めていた」遺族の悲痛な訴え

 「一度はミスと認めたはず」遺族が病院の対応に不信感を募らせています。兵庫県尼崎市の病院で、女性が腹部に溜まった水を針で抜く治療を受けた後死亡した問題で、遺族が思いを語りました。
「血の海の中で寝てました、血の海。だから止血もちゃんとしないで帰されて、かわいそうに…」(亡くなった女性の母親)
 事故は先月4日、尼崎医療生協病院で起きました。
 患者は重度の肝硬変で入院していた35歳の女性で、腹部に大量に溜まった水を針を刺して抜く治療を受けました。
 治療したのは20代の研修医
 1度目は失敗し、2度目でおよそ1.5リットルの水を抜きましたが、その後女性が腹痛を訴え、皮下出血を起こしていたことがわかりました。
 しかし病院はすぐに血を止める治療を行なわず、数日後、輸血をしましたが、女性は先月16日、出血性ショックで死亡しました。
「娘が『失敗された、痛かった』と言ったから。『失敗したんでしょ』と言ったら『はい』って」(亡くなった女性の母親)
 不審に思った家族は病院に説明を求めます。
 そのとき病院側は結果的に病状を悪化させたと謝罪しました。
「出血に対して十分な対応を結果的にしていなかった。甘く見ていたんだと思う」(女性の主治医~病院の説明の記録)
「腹水を抜くのに失敗したのが原因?」(女性の母親~病院の説明の記録)
「それが大きなきっかけ」(女性の主治医~病院の説明の記録)
 しかし8日開かれた会見では…。
「(Q.ミスといえるのか?)ミスという言葉を使っていいかについては、今のところこちらで判断しかねている」(尼崎医療生協病院・島田真院長)
「私らの前で言っていることと娘にも謝罪しているのにあの会見は何?とすごく腹立つ」(女性の母親)
 病院側は会見で「針を刺したとき偶発的に血管を傷つけたが、治療法に問題はなかった」と主張しています。
 一度は謝罪しながら、なぜミスを認めないのか、遺族は病院の対応に不信感を募らせています。

[9日21時4分更新]

        

 ← 映像はこちら YOUTUBEにアップされていました。

 
  

私は、憶測でモノをいっているわけではありません。

事実として、会話が録音されていることや、出血していることが解っていながら、十分な対応をしていなかった責任を問うているのです。

訴訟に身構えて医師を萎縮させてはいけないという意見もわかります。日々そういう事態に直面している医師の気持ちもわからなくはありません。ただ、出血しているのが解っているにも関わらず、適切な処理をせず、死に至らしめた。腹水を抜くことに失敗したことが死にいたる大きなきっかけとまで主治医は述べており、これがミスではないと言い切れないとしたら、一体、何をミスと規定するのだろうか。残された遺族がそんなことばを聞いたら途方に暮れてしまうでしょう。

 

それと、マスコミを私が批判していることに対してダブルスタンダードとおっしゃる。マスコミは事実を粛々と報道する上では、その情報は大事にしたいし、それは貴重なツールだ。しかし、その事実をねじ曲げて、ある目的に向かって世論を操作するような行為はジャーナリズムの風上にも置けないから批判をしている。まして、今回、MBSは遺族が録音した貴重な声を報道しており、ジャーナリストとしての役割を果たしている。自分自身が文屋出身だからこそ、ジャーナリズムの本義に外れた行為については鋭く批判する姿勢は今後も貫くつもりで、1か0かのデジタル思考で、マスコミを全面否定しているわけではないので、あしからず。

 

とはいえ、前途有望な若いお医者さん。貴重な人材です。

医者か患者かという立場ではなく、人間として、どうなのかという視点で物事を見て欲しい。医学の知識はなくても、人の善悪の判断ぐらいさせていただきたいと私は思っております。

というのは、とんでもない医者もいれば、とんでもない患者もいる。気の毒な医者もいれば、気の毒な患者もいるということです。

かのブログでご紹介いただいたおかげで、ずいぶん、皆さん、私のブログをのぞいてくれております。アクセス倍増です。

50手前になっても、議論は大好き。専門知識はありませんが、今後とも、NATROMさん、よろしくお願いします。

 

追伸 NATROMさんが指摘していただいた、私のホームページでリンクを張っていた「9.11の真実」。リンクが切れていたのを発見しました。リンク張り直しときます。それと、私は、別にこの説を強く主張しているわけではありません。注意書きをしているように、いろんな議論が起こっている9.11について、参考にという意味合いです。ご指摘、ありがとうございました。

追加( 2009.2.16) トラックバックっていう仕組みがよく解っておらず指摘を受けましたので、NATROMさんのところにトラックバックしておきました。

Q 医療過誤とは

A

病院で患者が死亡したり症状が悪化した場合,そのすべてが医療過誤というわけではない。医療過誤は,その原因として医療機関(病院,診療所,医院など)の担当者(医師,看護師,検査技師など)に過失(ミス)がある場合をいう。
医療過誤には,診断ミス,検査ミス,手術の失敗,全身管理の不全,投薬量の間違い,薬の副作用,看護ミスなど,様々な形態がある。

法律ハンドブックより

 

医療過誤裁判からの報告(係争中)より

医療過誤裁判とは何か?

 医療過誤裁判のほとんどは民事裁判であり、ここ数年で激増している。それは、医療過誤が増えたのではなく、裁判での戦い方が、患者や弁護士らに認知されてきたためであると思われる。
 医療過誤や事故は、大なり小なり毎日どこかで起こっている。しかし、なかなか裁判にはならなかった。その原因は、一般的には3つの問題が指摘されている。医療の専門性、密室性、そして封建性の壁である。
 ここに、医師賠償責任保険の問題、医療事件そのものの性質、弁護士の能力不足、原告の生活事情が折り重なって、裁判を困難にしている。
 原因のひとつは、民事裁判の仕組みにある。民事裁判では、訴え出た患者側である原告に立証責任があるからである。ここでは罪を追求する検事はいない。医学的な間違いを、医学に素人の患者や弁護士が証明する必要がある。審判する裁判官も医学には素人である。これが医療の『専門性』といわれる課題である。
 裁判官は、ひとりで200から300件の事件を抱えている。医学の勉強をしろと言うほうが無理であろう。
 そして、医療の『密室性』の問題が加わる。
 本当は何が起こっていたのかは、医師にしか分からないからである。特に手術中の出来事は、患者側には知らされない。手術中の死亡を家族に伏せていたなどという話は、医師のエッセイなどでよく書かれることである。過誤の存在を調べるために必要なカルテの開示さえ、拒否する事例が多いと報道されている。カルテの改ざんもよく発覚する。『密室性』とは『隠蔽性』のことである。
 加えて、裁判では、原告と被告との間で「医学鑑定」の応酬がなされるのだが、ここで鑑定医の問題が出てくる。医師同士のかばいあいの体質、医療の『封建性』あるいは『閉鎖性』と言われている問題である。
 自分が訴えられたとき、不利な証言をしてほしくないという心理が働くのだ。また、およそ病院というのは、地域近隣の大学病院が中心となって医師が派遣されていたり、検査設備の利用や患者の紹介などで相互に利害関係があるので、もとから被告よりの証人となる。学閥や大学病院の医局制の問題とも言われる。お客に逆らえない、上司に逆らえないという関係が、医師の間で存在するのである。血縁があればなおさらであろう。
 そのために「医学鑑定」そのものが信憑性、公平性に欠けたり、医師が鑑定を嫌がるために、原告や裁判所が鑑定医を探すのに苦労することになる。鑑定医を探すのに半年、依頼して鑑定書が出るまで1年なんてざらである。
 さらに異様なことに、病院や医師の過失を民事で追求すると、日本医師会と戦うことになるのである。医師や病院が、日本医師会の医師賠償責任保険に加入しているためである。
 当事者である医師や病院が責任を認めて賠償したくても、日本医師会の審査委員会が納得しなければ保険金(賠償金)が下りないのである。日本医師会は、保険金の支払いという拘束をもって、医師に味方をする形になる。つまり、被告の医師は、日本医師会の指示に従って裁判を行うことになり、日本医師会の承諾なしには和解もできないのである。
 いったい誰と裁判をやってるのか、わからないような状態になる。

日本医師会は、
日本のほとんどの医師が会員である。

開業医を中心に医師全体の6割程度が会員である。

ひとりの医師を敵に

すると、日本全部の医師が敵になるとも言える。その状態で、医療裁判を戦うのである。
 重ねて、医療過誤の場合、事件そのものが、様々な疾患や状況、個別の差異で錯綜しているので、白黒のはっきりした状況が少ないのが普通である。
 風邪をひいたとしよう。原因はウイルスである。では、そのウィルスは、どんな種類のものか? いつどこでどうやって感染したのか? 何故、感染して発病してしまったのか? 推測なら誰でもできる。しかし、混沌とした過去に対して、こんなことを絶対的に証明できる人が、この世の中にいるだろうか。医療過誤裁判は、それを患者側だけにやらせるのである。
 弁護士という援軍がいるではないか?
 それは、医療過誤裁判を知らない人が言う言葉である。
 様々な特殊性のために、医療過誤裁判は長くかかる。3年から8年、平均でも5年と言われる。先頃、15年かかった医療過誤の審理に「正義の遅延は、正義の拒否に等しい」と東京高裁が自己批判したくらいである。また、一般の民事裁判の勝訴率は7割以上なのだが、医療過誤裁判の勝訴率は、はなはだしく低くおよそ3割である。
 そのために、成功報酬を得る弁護士にとっては非効率な仕事となるので、医療過誤事件には難色を示す。
 それで、普通の弁護士は逃げる。そうなると、提訴そのものが出来なくなる。ここに極めて重要な難所がある。
 弁護士を説得するために、医学にも法律にも素人である患者自身が、孤立無援の状態で、医療過誤の内容を調査し把握しなければならない、ということなのである。もちろん、この時点で、証拠保全の手続きや任意開示がなければ、カルテや看護記録は全て病院にあることになる。
 その原告の経済的、時間的、労力的、能力的な負担は半端ではない。
 あたりまえだが、原告は長い闘病生活を送った後のことである。後遺症に苦しむ毎日でもあろう。あるいは、患者本人は亡くなられて、家族は疲れ果てて悲嘆にくれながらの頃である。仕事を失わざるを得なかった人も多いだろう。生活に困窮する人もたくさんいることだろう。まして、当人が通院加療中であったなら、医師や病院を訴えることなど心理的にはできやしない。
 このような困難を乗り越えて、幸運にも提訴できた原告らは、しばしば商業出版や自費出版で手記を書いたり、ネット上でホームページを作ったりして医療過誤裁判を紹介している。それは何故か?
 実は、これこそが、医療過誤裁判の悲惨さなのである。
 ひとことで言うと、その戦場となる法廷では、勝っても負けても、極めて不条理な状況が展開されるからである。
 医師の偽証は日常茶飯事。ならば、広く世間に審判を仰ぎたいという話なのである。裁判内容の積極的な公開によって、それが多少なりとも実質的に世論の監視下に置かれることで、より公平な裁判を受ける可能性が開かれるのである。
 ひとつだけ例をあげよう。
 ある裁判で、裁判所自身の依頼による医師の公的鑑定書が出た。しかし、原告にとっては、その内容は正当とは思われなかった。鑑定医の証人尋問が3時間に渡って行われた。途中休憩の際に鑑定医は原告に言った。「やあ、ずいぶん勉強していますね。驚きました。失礼しました」
 その鑑定書は当時の記録からではなく、後日に作られた看護師の意見書をもとに作られたことが判明した。次に、その看護師の尋問が行われ、鑑定の元となった意見書は捏造されたものとわかった。(出典「医療ミス」近藤・清水共著/講談社)
 だから、医療過誤裁判は社会問題なのである。
 医療が公共の問題であるということだけではない。
 原告が、医療や司法あるいは行政のあり方に異議申立をするという、社会政治的な行為に突入するという話なのである。法律用語で言えば「公共性の自己統治」という民主主義の実践を意味する。この社会性ゆえに社会問題なのである。
 被害に遇った患者は、これら全ての劣勢を背負い、『誠』の旗を掲げて、敵陣の真っ只なかに躍り込む。それが医療過誤裁判という戦いなのである。
 千万人といえども我ゆかん。

 医の世に生活するは人の為のみ、おのれが為にあらずということを、
その業の本旨となす。安逸を思わず、名利を顧みず、唯おのれを捨てて
人を救はんと希うべし。人の生命を保全し、人の疾病を復治し、人の患
苦を寛解するのほか、他事あるものにあらず。

  ―――――――適塾「扶氏医戒之略」緒方洪庵 安政4年 公裁誌

 

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カテゴリー: 医療問題